元旦の夜中に書くことではない(正確には2日)

 

久しぶりに何か書かずにはいられなくてわざわざブログを開設してしまった。

 

いつもいろいろ言いたいことや思ったことを人に言いたいと思っても、この世の中人に話を聞いてもらうことは有料なことだから(カウンセリングとか)、知り合いや友達や恋人に自分のこういった処理できない感情の話をすることは申し訳なくて喋れず、しかも私が話したいことは世の中一般的には「どうでもいい」ことに分類されることなのでそもそも人に話すことでもなく、そして私の方も話したいことが明確にあるわけではないので、ぽつぽつと私が話すことを聞いてなんとなく行間を読んで気持ちをわかってほしいみたいな感じで、でも真面目に聞いて欲しくて、片手間に聞いてほしいわけでもなく、わかるわかるしてほしくもないので、わかってくれない人に話すくらいなら話さない方がマシで、一人で海にでも行って3時間くらいぼんやりして泣いたりすればなんとかなるので話して壁を感じるくらいならそっちの方がまだずっとよくて、海じゃなくても夕焼けとかでもよくて、あと朝日でもいいし、別に海や夕焼けや朝日みたいなセンチメンタルな自然じゃなくても真昼の日光を窓から眺めてもビルの中の喫茶店から「行き交う人並み」を見てもよくて、ともかく自分より大きなものを見ることさえできれば、自分の片付けられない感情をそこに仮託してなんとなく昇華できてきたけど、最近は本当に忙しいし、寒いから、そういう風に無為に時間を過ごすということができない。

 

でも人間の多くが、こういう人に言えない言いたくない言う必要もない感情を隠して黙って生きていることはわかるし、でなければ音楽も文学もいらないと思うので、この記事も多分冷静になったら消してしまうものになると思うけど落ち着かない。

 

自分の感じている感情や思っていることが人間一般に共通な陳腐なもので極端に悲愴がることはなくて、もしくは今気がつかないうちに落ち込んでいて全部が悲しく見える眼鏡をかけているのかもしれず、今なぜ今自分の憂鬱の正当性を弁解しているのかもちょっとよくわからないけど、何か言いたいけど何も言えない感じがある。

 

もう25になるのに他人は他人だということに新鮮に傷つく。自分が他人から見て、どうでもいい単なる人間、私が憂鬱な時に眺める人ごみの中を歩くひとりであることに傷つく。自分が新鮮に身悶えするこの感情が人類普遍なことに傷つく。自分のすべての感情や、すべての事情が、全世界の今生きている人間のデータと過去に全世界で生きていた人間のデータから見て、平均化できる感情であることに傷つく。

 

自分のことが特別であってほしいと思っているわけではなく、自分の感情や思考みたいなパーソナルなものも、自立しきれていない幼児性のある平均的25歳の人間の思考パターンの枠内に入ってしまうことが辛い。自分の個人的なものというのが、「みんな」の中に相対化されてなくなってしまうような気がする。というか言葉で何か表現をしようとする時にすでに表現されたいものは普遍化されてしまっているので、絶対に自己とか自我とか存立不可能であるので、もう前提からして無理で、自分が拠り所にできる自分なんていうものはないんだということを書きながら思う。

 

こういうことを思っている反面、海や人ごみをみて感情を片付けているのは、一体何にこんなに困っているのかがわからない。

 

「〜〜わからない。」という言葉を使うたびに本当に名前を忘れてしまったけど、何かのエッセイストが「私のエッセイにはわからないが多いと編集さんに言われた。だってわからないのだ、云々」みたいな文章を書いていたのを思い出し、いやエッセイストなのに書くべきものを「わからない」と言ってどうする、と思う(今でも思う)

 

書き忘れていたけど「行き交う人並み」は引用で、ロードオブメジャーの「偶然という名の必然」に出てくるワンフレーズで、多分続きは「去りゆく日々は人に問う」だったと思う。人混みという言葉を使おうとしたときに急に出てきた。

 

いろいろ本を読んだせいで一つの単語をきっかけにしていろいろな文章が呼ばれてでてくる。こういうことを考えていると特に呼ばれなくても出てくる文章もいる。

 

「夕焼け」という言葉を上で書いたけど、「夕焼け」という言葉もつながる文章でよく覚えているのがある。三島由紀夫の『暁の寺』で、主人公本多がタイに行った時にうざい通訳の菱川という男から芸術論を垂れられる部分の文章で菱川がいうセリフに出てくる。「芸術というのは一つの巨大な夕焼けです。一時代の全てのよいものの燔祭です」

 

道を歩いている時は渡辺玄英の詩の一連が呼ばれてないのに出てくる時がある。「けるけるとケータイが鳴く」「火曜日になったら戦争に行く」「唇に剃刀を当てて 黙れよと」別に渡辺玄英に限らず色々出てくる。でも最近は渡辺玄英が一番多い。あとは友達の言葉も思い出す。「暇な時海に行ってよく本を読んでる」と言ったら友達が「サガンみたい」と言ったことなども思い出す。

 

大学生の頃に歩いて帰っていて一本道の向こうは川という所、道路側の通りで工事をしていて工事の足場と狭い道の向こうの川が綺麗で写真を撮ったけど心霊写真が撮れたら怖くて見なくて消したことを今でも後悔している。

 

そういうことを誰かに話したくても、全部みんなから見たら本当にどうでもよいことで、私が歩いている時にどんな詩を思い出しても、「わからない」という言葉から何を思い出しても、よくわからない感情で困ってぼんやり海をみて3時間過ごす話も、子どもの頃にいやな気分になった話も、世の中で平均化してしまえば全部ある意味「よくあること」でしかなく、実際よくあることで、あと多分まあ全然元気に生きてきた方なことはわかっているので、そうやたらと嘆く必要もないことも全部わかっているし、あとみんな(誰?)はそんなに暇ではないし、自分もそんなに暇ではない。